mazeltov7の日常・非日常

本・映画・アニメとかのテキトーなログ

30人くらいで伊豆にいってきた

友達のじーちゃんが、民俗学者折口信夫の直弟子で歌人岡野弘彦さんで、昭和天皇とかに短歌とか教えてた人とかですごいので、30人くらいで伊豆までお話を聞きに行ってきた。 一緒に行ったメンバーも各ジャンルの色んな人が来てて、みんなキャラ立ってた。 自然溢れる伊豆で、久々に文化的な雰囲気の中、快活なメンバーに囲まれて、ごにょごにょ感じたことをメモする。

短歌的な日本人的感性のゆくえ

じーちゃんの話を聞く中で感じたのは、短歌そのものが今後どうなるかとその影響について。一応義務教育の過程で短歌に触れる機会はあったものの、ハイコンテキストなコミュニケーションである短歌を使って日常でやり取りするってのはさすがに今はしないし、今後もそれが盛り上がってくるってのは残念ながら無さそう。じーちゃんの話を聞くに、短歌は日本人独特のすごい繊細な感情や描写ができる形式のようで、それが無くなっていくことに時代の流れ的に仕方無いと思いつつも、残念に思ってる感じが印象的だった。

言葉は、意思伝達としてのコミュニケーションのツールとしての役割と、意思伝達以上の意味を込めた表現としての役割があると思うけど、普段は前者でしかあまり使ってないなぁ、と。メールとかチャットとか、とりあえずこちらの意図をいかに正確に伝えるかだけを考えて使いまくってる。

一方、短歌とかって、今感じてる感情に含みを持たせて、その感情とか感触みたいなものを表現して感じてもらう、みたいな形式に思える。絵画で表現したり、音楽で表現したりしたものを感じてもらうのも、大雑把に考えると同じ伝達形式なのかな。

短歌の形式がほんとに"日本的"なのかどうかはわからんけど、短歌的なコミュニケーションが以前はかなり行われてたとすると、現代は、短歌みたいな叙情的なコミュニケーションが減ってるなぁと。意思伝達のコミュニケーションがほとんど。で、注意すべきは、この叙情的なコミュニケーションが減ることで、所謂”感性”が鈍る?のではないか、っていうところ。というのは、叙情的なコミュニケーションで、例えば、短歌でこの海原の景色を見ている自分の感情を詠もう、と思う場合に、"じっと自分の心に耳を傾ける"的な行動すると思うんだけど、この機会が減る、ってことで、そこが問題の焦点かなぁと思ってる。短歌って、あの形式に当てはめる言葉遊びが肝ではなくて、この、”じっと心に耳を傾ける”みたいな部分が短歌なんじゃないかなぁと。この”じっと心に耳を傾ける”という機会の多寡と、所謂"感性"の貧富は関係してる気がするのです。

とはいえ、短歌を詠む人が減っていったのは、あまりにハイコンテキスト過ぎたからなのかなぁ。短歌の良さがわかる人って今すごい少なそうだもんね。poemもそうか。絵画とか音楽の方が情報量が多くてわかりやすい形式ってことなのかな。

わかりやすい、シンプルな素直さ

伊豆には2日間いたんだけど、その30人くらいの参加者から感じたこと。参加者のみなが、自由に、素直に、溌溂と、交流してるのに比べて、自分はまだまだ素直さが足りないなぁと。自分に対しては存分に素直にやれてるけど(笑)、人と素直に向き合うところはまだまだだなぁと。 と、エモくなってしまったことともう一個感じたことがあって、何か意見を述べるときに、論理的に考えを述べるのも大事だけど、自分の感情や気持ちを素直に表現して、それをうまい感じに主張に入れ込む、すると、これが結構共感を生みやすい!、っていうのを感じた。普段の会話でもこれやってると聞いてて気持ちいいし、良いな、と思った。この”気持ちいい”っていうのが大事だなぁと。

いやー、何より自然の中で、めちゃリラックスして、ご飯食べたり、温泉入ったりして、人間味を回復した気がする。幹事の某はるきには多謝。